父のこと

スポンサーリンク

本日、父が亡くなったそうです。

私のブログに父の話が出てこないことにお気づきの方もいらっしゃったかもしれません。

私の両親は私の成人式が終わった4日後に離婚をしました。

早くからそのような約束がされていたわけではなく、たまたまそうなったのだろうと思います。

1998年12月に、私の5歳上の兄が結婚し、

年明けすぐに父が隠していた借金トラブルが出てきて一度行方不明に。

私の成人式には両親と三人で出かけ

父が離婚して父方の祖父母の家に出て行く際は
母と一緒に私も送って行きました。

借金発覚から父と母が離婚するまでの2週間、
お付き合いしていた夫は柔道のアジア大会でなんとタイに行っていました。

そして半年後の7月に
一緒に暮らしていた母方の祖父がガンで亡くなり

たった半年の間で
6人家族から、祖母と母と私の女三人家族になったのです。

父の借金が何だったのか本当のところは知りません。

パチンコなどで増えていったのだと思います。
お友達や後輩の名前でカード会社のカードがたくさん出てきました。

離婚する前に
母や叔父が一緒にほかの人の名義の借金は返し
迷惑がかからないようにしたようでした。

それから約2年後私は夫と結婚をしましたが、
披露宴に父を呼ぶ気持ちにはなれませんでした。

そしてそれからどのくらい後だったか覚えていませんが
父はまだ隠していた闇の借金があったらしく
失踪しました。

10年程して
父はどこかに住み込みで働いていて
仕事中に脳出血で倒れ病院に運ばれたとのことでした。

今から11年前のことだったと思います。

兄夫婦と夫と4人で会いに行き

命は助かりましたが
右半身麻痺と、言葉が全く出ない状態になっていました。

そのころ、病院と施設には会いに行きました。

点滴などを触らないように左手にグローブのようなのをはめられていて、
私がグローブ越しに触っているとそれが激しく動くので
看護師さんに「手がどうかあるんじゃないでしょうか」
と言うと外してくれました。

その瞬間
私の手を強く握って涙を流して泣き出した父。

私に、会いたかったのでしょうね。

しばらく施設に会いに行っていたのですが、

全盲で一人で行くことができない私は
タクシーで行かなくてはならなかったり
当時小学3年生の長女の力を借りないと
病室に行くことも、しゃべれなくなった父とのコミュニケーションも難しく

行くのが辛くなってきて遠のいてしまいました。

そもそも子供好きの父なので、当時小学3年生だった長女と指相撲をしたりうれしそうに遊んでくれました。

兄はその後もずっと通っていてくれたのだと思います。

私は行かなくなってから10年が経ってしまいました。

ここ数年は認知が進んでいて、兄のこともわからなくなっていたそうです。

施設でコロナのクラスターが起きて、肺炎で亡くなったように聞きました。

親不孝というのを、したのかもしれません。

20年9カ月一緒に暮らした大好きな父でした。

思春期にも父のことをイヤになったことはなく、

小学生の時は原チャリで帰ってくる父を拾い道まで迎えに行ったり
夕方バドミントンをしたり

琉球大学への検査で二人で何度も沖縄に行ったり
高校生の時はお付き合いしていた夫にも優しくしてくれて車で送ってくれたり

盲学校のマラソン大会前は手引きして練習にも付き合ってくれました。

小学生の頃、父の日の作文か何かで
夕方もっと父と遊びたくて
「もう少し早く帰ってきてください」と書いた私に

「5時半に帰ってこれるパパは、お友達のおうちのお父さんよりすごく早く帰ってる方なんだよ」
と父は苦笑していました。

葬儀も行わず病院から火葬場に行ったそうです。

我が家は全員コロナ療養中のため行くことはできず、
兄夫婦と姪っ子が行ってくれました。

私はメンタルが強いです。

メンタルが強い私ですが、
コロナを発症したこの五日間で
安倍さんがあんなかたちでなくなり
父も亡くなりました。

全然会っていないけど
遠くにいる大切な人と
会えないままお別れとなりました。

20年9カ月といえば
19歳5カ月の今の長女よりも
父親と長く過ごしたことになります。

私の感謝が、足りなかったかもしれません。

パパ、
お兄ちゃんと私をこの世に誕生させてくれて、ありがとうございました。

パパの優しさもギターも、ずっと覚えてるよ。
ありがとう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました