祖父のこと

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私の祖父について。

私は小学2年生になる年から
母方の祖父母と一緒に暮らし始めました。

私が二十歳の時に離婚した父は、マスオさんをしていました。

祖父は
優しくてかっこよくて
なんでもできる器用な人で、
何か壊れたりなんとかならないかなというものは
祖父にお願いしたらいつもどうにかなっていました。

娘である私の母も叔母もパパっこで、父親大好きだったようです。

5つ上の私の兄は一緒に遊びに行く感じではありませんでしたが、
孫である私と従弟×2(私の3つ下と5つ下)は
夏休みはプール、冬休みはスケート、
その他動物園やスーパー銭湯など、いつも祖父が連れて行ってくれていました。

当時祖父はおそらく60代だったと思うのですが
プールでは一緒に泳いでくれていましたし
スケート靴はなんとマイシューズで、滑り方を教えてくれました。

人生の最後は太極拳と仏像の彫刻に熱中。
凝り性のため、太極拳では講師になり、仏像の作品は売れていたと思います。

孫で女の子は私一人であり
一緒に暮らしていたこともあり
目の病気で心配をかけたのもあったと思いますが
大変かわいがってもらいました。

当時テレビカメラマンのようなホームカメラで
私の運動会、マラソン大会、どんどやなど
必ず撮影に来ていたので、学校ではちょっとした有名人でした。

私のために『よしのぶ銀行』というのを開設してくれて
お年玉を預けるように言われ
10パーセントの利子をつけてくれていました。

小学生の私はよく意味がわかっていませんでしたが、
作ってくれた証書に印鑑を押したりして
お金を使いたい度に多く返してくれるので楽しかったのを覚えています。
祖父も楽しそうでした。

卸問屋で、駄菓子屋さんにあるのと同じくじ引きをいくつも買ってきてくれて
お正月は従弟たちとくじ引きし放題で楽しませてくれました。

両親働いていたので
眼科の定期受診や年に一回の脳のMRI検査などは祖父と行くことも多かったです。

祖父と一緒が楽しいため、従弟と遊びたいがために小学5年生まで男風呂に入っていた私…。
考えられないですよね~。恥ずかしいのでここだけの話にしておいてください。

中学の終わりに私が盲学校に転校してからは
朝夕の送り迎えが祖父の日課になりました。

なーんにも考えていない私は
16時頃だったり18時過ぎだったり
祖父の都合なんてちっとも考えずに
帰りたくなった時間に電話をして迎えに来てもらっていました。

犬の散歩の時間や
相撲を見たい時間や
食事中だったりしていたと思います。

自ら「じいちゃんはお前のアッシーだから」と笑って言ってくれて
私からの連絡を受けるために当時PHSを契約していました。

そして70歳を過ぎて直腸がんになり
2度目の手術で人口肛門になりました。

私の学校の送迎があるからと
手術を春休みや夏休みに合わせてくれていたそうです。

祖父が亡くなった時
私は21歳でした。

今、祖母には9人の曾孫がいますが、
残念ながら祖父は一人も曾孫を見られませんでした。

今日は祖父の誕生日です。
生きていたら96歳。

小学生の時、祖父が代わりに適当に作ってくれた木箱を学校に提出したら
作品展で特選を取ってしまいました。
コメント欄に「おじいちゃんに手伝ってもらいました」と書いたことは
思い出でもあり、ずっと反省している出来事です…。

その木箱は今でも私の宝物入れです。

じいちゃん、たくさんの愛情をありがとう。今でも大好きです。

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